なぜ、花屋を始めたのか?

1、自分が花屋を始めた経緯

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花屋は、42歳の時に、始めました。

僕の花屋開業元年です。

花屋開業までの道程を、振り返ってみます。

 

 1-1 西友時代

大学卒業のあと、西友で15年働きました。

最初紳士衣料4年、労働組合の専従4年、

新規事業の開発7年です。

新規事業の仕事は、楽しかったです。

多くは西武セゾングループの特徴の一つであった、

文化事業の先兵でした。

チケット・セゾンという、チケットオンライン販売システムを、

西武百貨店とセゾンカードとともに、作りました。

途中、若造でしたが、西友の責任者でした。

マドンナの公演、9公演しました。

ゴルバチョフの時代にソ連に2回行き、

ソ連のバレエ団を呼んで来ました。

東京で13公演しました。

江口洋介の、最初のコンサートのプロデューサーをしました。

コーヒーの自動販売機を半年で800台、5億円売りました。

その他、ブライダルビジネス、引越しビジネス、サービスカウンタービジネスなど。

好きなことをさせてもらいました。

なんか、自分でやってみたいなと思いました。

37才の時、西友をやめて脱サラしました。

 

 1-2 脱サラ時代

脱サラ直後企画したのは、アメリカの婦人下着を仕入れて、

日本で訪問販売をする、というものです。

よくニューヨークや、シアトルに行きました。

ニューヨークのオフィスに行くと、

モデルさんが別室で着替えて、ファッションショーのように、

下着を、見せてくれます。

場所はニューヨーク、外人モデル。

下着がとてもカッコよく見えます。

ヨシッと、下着を仕入れて、日本で売ろうとしました。

ものは、ものすごく良かった。

デュポンのナイロン、ライクラスパンデックスに、

コットンをコーティングしたレース。

そのころの、ヨーロッパのレースは見た目はキレイでも固く、

着用感に難ありでした。

この、伸びるコットンレース、最高!

ブラジャーやショーツは売れました。

でも、あのカッコいい、見せる下着は売れない。

キャミソールや、ボディスーツです。

だんだん、在庫がかさみ、訪販組織づくりも遅れ、

資金繰りに窮して来ました。

残念。在庫を整理して、事業をたたみました。

10年後、日本では、やっと見えるキャミソールなどが認知され、

大ブームに。10年早かった。

あと、持ち込み案件に飛びついて、計画性が無かった。

女性のものなのに、男性目線で見てしまった。

今ごろ、反省しています。

 

 1-3 保険のセールス時代

さて、困った。西友の退職金も、底を尽きかけている。

可愛い娘二人と、妻を養わなければならない。

それで、歩合制の保険のセールスになりました。

懸命にやりました。

毎日5:20に家を出て、家に23時~24時に家に帰る、

そういう生活でした。

寒い1月に、広尾でお医者さんのリストを持って、

飛び込み営業しました。

広尾のgardenヒルズ辺り。お店の一つも無い。

マンションは、セキュリティで中に入れない。

やっと、トイレがあるビルに駆け込む。

九死に一生を得ました。

また、営業にお酒は付きもの。

ほんの少しは飲めたのですが、

酒豪の社長と付き合う時には、

黒丸という、お酒の酔い止め薬を飲んで、

1升近く、飲んだことありました。

社長と、別れるまでは普通でしたが、

別れたあと、緊張の糸、取れてしまいました。

京浜東北線、酩酊して、桜木町ー大宮間、

一往復半しました。

保険は売れました。生活は、なんとかなりました。

いや、それ以上かも。月収500万円を超えた月もありました。

また、アメリカに行き、いい事業がないか、探しに行きました。

細々と、昔の西友時代の直属上司が、無印良品の社長に、

レポート報告をし、興味があれば、いっしょにやりましょう、と。

そうしたら、無印良品から、声がかかりました。

阿部、オフィスデポ,日本でやってくれないか、と。

無印良品とオフィスデポの提携話が進んでいて、

自分に、日本側の責任者として、白羽の矢がたったのです。

本音をいうと、保険の販売は意義のある仕事でしたが、

あまり、好きにはなれませんでした。

渡りに舟で、すぐその仕事に飛びつきました。

年収は、半分になりますが。

 

 1-4 花屋になる直前の仕事

無印良品にスカウトされ、

オフィスデポの日本側の事業責任者として入社しました。

オフィスデポは、ホームデポという、アメリカNO1のホームセンターの子会社。

ホームデポは、今では、ウォルマートに次ぐ、全米2位の小売業です。

オフィスデポも、当時で売上1兆円程度(円換算)。

全米NO1のオフィス専門店。

トイザらス、ご存じですか。

トイザらスは、子供総合小売り企業。

子供に関するものは、全てある。

勉強の教材まで。

オフィスデポは、オフィス総合小売り企業。

早速、オフィスデポを調べに、

アトランタオリンピックの前の年の、アトランタに飛びました。

いろいろ、調べました。

このビジネスはまだ日本では難しいな、と思いました。

600~800坪ぐらいの店舗物販ビジネスです。

日本では、SOHOが育っていない。

small office home office.

売上の4割は、パソコン。

パソコンは、乱戦模様で、あまり儲からない。

熟慮の結果、この事業、やめてもらいました。

後日談。

交渉2番手につけていた広島のデオデオ。

大手の電器専門店チェーン、今、エディオン。

デオデオがオフィスデポ事業を始め、

5年で、27億円の赤字。

類似事業、オフィスマックスをイオンが始め、

3年で15億の赤字。

阿部の判断は、素晴らしかったと、あとあと言われましたが、

オフィスデポの提携話を持ってきた、

次の無印良品の社長(当時常務)には、散々、嫌われました。

彼に恥をかかすことになってしまいましたから。

信念で仕事をすると、損をすることが多いです。

自分は信念曲げないので、いつも損をします。

 

2.花屋のはじまり

 

さて、自分は社内失業の身となりました。

無印良品の社長が、何してもいいよ、

というので、その結果、花屋を始めたのです。

前置き、長かったですね。

人に歴史あり、のようなものです。

 

 2-1 なぜ、花屋を始めたのか?

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新規事業を、何か一つやろうと考えました。

一つは、マーケットが大きくて、遅れている業界。

遅れている欠点をクリアーにすれば、

マーケットのシェアを取れる。

二つ目は、自分が買いたい花屋が無い。

ならば、自分が作ろう、と。

当時花屋といえば、ギフト系の花屋が中心。

自分の家庭に、ちょっと手軽に買える花屋がない。

それを、街々に作ろうと!

街を、花でいっぱいにしたい。

ちょっと、花が家の中にあれば、

家の空気が違ってくる。

空気が華やぐ。気持ちが安らぐ。

これで行こうと思いました。

花の事業、花屋の経営の本などを、

急ぎ、読み漁りました。

小売りの経験はあるけれども、

花屋のことは、皆目わかりません。

本に出ていた、埼玉の市場に行ってみよう!

すぐ電話をかけて、翌日に伺いました。

副社長が応対してくれました。

初対面なのに、3時間も会話が弾みました。

花屋を開業しよう。

そして、決めたこと。

この市場に、丁稚奉公に入ろう!

 

 2-2 丁稚奉公・研修時代

 

市場に、生産者が花を送る。

それを、花屋や、仲卸が競りで買いにくる。

市場に、お花の情報が多く集まる。

早く、花、花事業を、体全体で覚えよう。

ビジネスのへそがどこにあるか、理解しよう。

ということで、市場の男子寮に泊めて頂いて、

市場で仕事をさせてもらうことに、しました。

市場に丁稚奉公です。

 

競り、梱包、配送、ラッピング、切り花、鉢、観葉、蘭。

一通り、触らせてもらいました。

皆さん親切で、生き生きと、働いていました。

こんな世界なんだな。

 

つぎに、市場の紹介で、大宮の花屋さんに、

研修させてもらいました。

8月のお盆の前で、とても、忙しかった。

トレーナーのお姉さんを、一人つけて頂きました。

若いけどベテラン、ビシビシしごかれました。

今考えると、相当、邪魔だっただろうな。

よく辛抱強く、教えてもらいました。

今でも、感謝しております。

 

 2-3 日本・海外マーケッティング

 

次に、北海道の富良野から、四国愛媛の東予まで、

生産者回りをしました。

皆さん、どんな思いで、花を作っているのだろう。

その花を、僕たちが売る。

8月でした。

ラベンダー、チコリ、リンドウ、リンドウ、

バラ、バラ、スプレーバラ、カーネーションなど。

皆さん、いい花を作ろうと、頑張っていらっしゃる。

こちら売る側も、鮮度良く、しっかり売らなければならない。

 

それから、日本国内の花屋さんを、回りました。

都内、北海道、仙台です。

まさか、花屋をしようと思っていなかったので、

どこに花屋があるか、分かりません。

草土出版の「素敵な花屋さん」というシリーズを見て、

お店を見て回りました。

東京のお店は、概して大きくない。

仙台や、札幌のお店は、東京にないぐらい

大きい店が多い。

家賃の関係でしょうね。

仙台や、札幌のお店が、東京に行けば、

売れるだろうなと、思いました。

また、自由が丘に2軒、本に出ているお店に行きました。

2軒とも、既にありませんでした。

家賃と収入が、合わないんだろうなと思いました。

地下鉄東西線の西葛西に、年商5億円の素晴らしいお店がありました。

フラワーカワイという名前の店でした。

ここを、一つのモデルにしようと思いました。

 

仕上げは、花の先進国、ヨーロッパの視察です。

当時、世界の花の輸出入の50%は、オランダ経由でした。

オランダの国策です。

領土の狭いオランダ。フライイング・ダッチマンといって、

商売上手です。

そのオランダに最初に入りました。アムステルダムおよびその周辺です。

世界一のアルスメール市場、日本一の大田市場の10倍以上の規模です。

それもそのはず、ヨーロッパ全体のみならず、世界を相手に商売しているのです。

町には、屋台でもお花を売っている。

家の外窓や、バルコニーに、お花がいっぱい飾ってある。

お国柄なのでしょう。

市民も花が大好きなのでしょう。

ついでに、ゴッホ美術館にも、寄って来ました。

次に寄ったのは、ドイツ。

ケルンと、デュッセルドルフです。

花屋さんと、園芸市場に行きました。

ドイツは、ヨーロッパで一番国力がある国ですが、

お花関係も、質実剛健な感じでした。

大きい、ケルンの大聖堂、中のステンドグラス、

デュッセルドルフで地ビールが美味しかった記憶があります。

最後は、花の都パリ。

街の角、角には、カフェか、大きいお花屋さん。

カフェでは外でワインを飲み、煙草をくゆらす。

花屋は、歩道にも所狭しと、花束が並べられ、

私をお家に連れてってと、呼んでいるかのようでした。

パリに世界一の、モンソーフルールというチェーンがありました。

街の角、角にモンソーフルール。

この世界一のモンソーフルールの陳列方法も、

自分の店に取り入れようと思いました。

パリで覚えているのは、レスカルゴという、

エスカルゴ専門店。

エスカルゴ好きなので、行ってみました。

大衆的な店です。

今では、サイゼリアで食べられますね。

 

さて、市場の丁稚奉公、お店での研修、国内の生産者回り、

国内外の、花屋や市場の視察。

これで、自分の作るお店のイメージが出来ました。

 

 2-4 そして、花屋を始めました。

 

まず、事業をするには、基本理念・ビジョンが大切。

 

以下のような、基本理念・ビジョンをきめました。

 

私たちのテーマ:食卓に花を!

 

キャッチフレーズ:鮮度一番、サービス一番、価格2分の1

 

精神:自分がお客様だったらして欲しいことを、

   すべてしてあげよう!

 

こうやって、第一号店が

1996年2月8日 東京立川にオープンしたのです。

初日、買い上げ顧客1300人。

201万円の売上を記録しました。

道路上の、チューリップの箱を部ッ積んで、

声を出して、10本のまんま1000円と、

大声だして売りました。

40ケース、瞬く間に売れました。

店の周辺の人は、テキヤが来たと思ったそうです。

こんな品の良いテキヤいるかな?

これが、僕の花屋開業元年でした。

 

【阿部憲資略歴】

 

1996年 東京立川に花屋1号店オープン

      以降、計30店舗の花屋開設

2001年 株式会社 花良品 代表取締役社長

2001年 日本フローラル協会理事

2007年 株式会社フラワー総研 代表取締役

      現在に至る。

 

【著書(共著)】

「お花屋さんマニュアル」1~4誠文堂新光社

「花屋さんの仕事 基本のき」誠文堂新光社

 

【TV】

テレビ東京「日比谷花壇 vs 花良品」(30分特番)

テレビ朝日「花良品 vs 青山フラワーマーケット」(30分特番)

NHKBS 「花良品の鮮度保証販売」(5分特集)

 

 

 

 

 

 

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